05.歴史や物語を伝える風景
徳川家康が荒川を渡ろうとしたとき、村人総出でかがり火を焚き、昼間のように明るかったので「昼間」の名字が授けられたという。昭和になってから、渡しは長らく途絶えていたが、二〇〇七年、地域住民の手により渡し場が復活した。 昔の風景が次々と姿を消す…
「岩槻に過ぎたるものが二つあり、児玉南柯と時の鐘」と詠われた時の鐘が、早咲きの桜の花の香りに包まれ、音色もひときわ冴え渡りそうだ。 江戸幕府が上野、川越とここ岩槻のものを特に優れた「時の鐘」として認めていたほど、この鐘は音色が特に優れ、四里…
遷喬館は岩槻藩に仕えていた儒者、児玉南柯が一七九九年(寛政十一)、裏小路(現岩槻区役所の裏を東西に走る小路)に開いた家塾。のち藩校となる。県内で当時の姿のままで保存されている藩校はここだけで、一九三九年(昭和十四)、県の史跡に指定された。 …
地元では「つきのみやじんじゃ」と呼ばれ親しまれているが、正式名称は「調神社」(つきじんじゃ)である。鳥居のない神社、うさぎのいる神社として有名。 中山道浦和宿手前の岸村にあり、江戸から蕨宿を経て、浦和宿への入口を示す神社であっただろう。 map…
三室にある氷川女体神社は、自然暦に基づいた古代的な信仰形態が窺われるロケーションが魅力的だ。見沼に突き出した台地の端にあって、初日の出は参道の延長上にある祭祀場跡の方向から上ってきて、普段は小暗い神殿を明るく照らし出す。 古代の信仰に思いを…
大円寺は明治初期に風渡野学校が置かれた由緒あるお寺だが、その周辺は次々と開発されて緑も減少した。突然出現した十五階のマンションは、見沼区で一番の高層建築物である。 大円園寺の正面に立てば、本堂の左奥に十五階建てマンション、右手前の庭園には十…
薬王寺は江戸時代の島村にあって眼病に霊験があるとされ、足立坂東第十番札所として信仰をあつめてきた。かつて祭礼日には寺をめざす人々が行き交い、川越道、岩槻道に露店が連なり大いに賑わったという。 現在の薬師堂は一九三五年(昭和十)の再建だが、屋…
加茂宮村の名前にもなっている古い神社で、英泉は「木曽街道上尾宿加茂之社」として、加茂神社と茶屋の絵を描いている。 マンションに囲まれてはいるが、今も中山道脇にこんもりとした森をつくっており、道行く人の目印になっている。さしずめ、さいたま市の…
荒川からの洪水が堤内の農地に逆流するのを防止するため、鴨川最下流部に設けられた一九〇四年(明治三七)年完成の煉瓦水門。 現在は水門としての役目を終え、荒川の旧堤防であった県道五七号の道路橋として、水路周辺の公園の一角にひっそりと佇んでいる。…